タドゥーのいろんな日常

このタイトルいつまで続ければいいのか

キャラクター論的な

更新できなさそうなので長文1個残しとく

物語における人物の表現について
人物を構成する要素は「キャラクター」と「感情」にわけられるのではないか
「キャラクター」は人物を表す不変の要素、それが変化するということ自体が一つのイベントとなる
その内訳としてはマキゾエの感想でも出した「記号」と「人格」
「記号」は職業/立場/性質/見た目/種族など
「人格」出来事に対してどのような反応をするか、各人物に対する基本的な感情など
境界は微妙(ツンデレなんかは記号だと思うし)
とにかくそれらによって「キャラクター」が構成されていると
「感情」は常に変動する要素
TPOによっても変わるし、同じ場面でもぐるぐる変わってもおかしくない
状況に対する感情もそうだし、各人物に対しても「感情」は変化する
「キャラクター」と「感情」はハードとソフトやデッキと手札みたいな関係ではないかと

状況に対する人物の行動基準という点で
「キャラクター」だけで動かす事もできる
この人物がこういう状況ならこう動く、という基準
「感情」だけも同じく、こういう感情の人物ならこう動く、という基準
動かせるんだけど、両方を組み合わせたほうが話の幅は非常に広がる

主人公と1:1の絡みしかないギャルゲー等が「薄い」と叩かれやすいのはどうしてか
その形式だと、どうしても「キャラクター」を魅力的にするという方向でしか人物を表現できないからじゃないかと
「記号」化のパターンは出尽くし、そろそろ限界じゃないかというのは言われて久しいし、「人格」を考えるにしても限度がある
逆に、大人数が絡み合って話が動き出すとキャラ立つと言われてるような種類の物語はと言うと、各人物の「感情」の動かし方がうまいタイプなのではないかと

萌え論なんかでは「キャラクター」こそが萌え萌え〜である、みたいな事を言ってるような気がするんだけど、ヲタが本当に萌えてるのは「キャラクター」だけではなくて、その上で動く「感情」もひっくるめてだと思う

魅力的な「キャラクター」とうまい具合に動かされた「感情」の両方を使うことが物語における人物を魅力的にする、と、基本的には
「キャラクター」に傾倒しすぎると叩かれるんだけど、例えば下の『マキゾエホリック』は「感情」部分がほとんど無し
その代わり、「記号と人格」が「キャラクターと感情」の役割を担ってる感じ
それでも非常におもしろかった、物語は深いな

なんだそのオチ